幕末、徳川幕府は諸学術を学ばせるために伝習生(留学生)を次々とヨーロッパに送り出した。慶応2年(1866)には、イギリス留学生が派遣された。三上参次博士は「外山正一先生小伝」p.11に 「そもそも、この英国留学生派遣の挙は、頗る意味の深いことである。当時仏国公使レオン、ロッシュは頗る幕府に結び、幕府もまたロッシュに信頼して、諸種の計画をなして居る。されば、英国公使パークスも之を座視せず、百万幕府に対って英学の必要を説き、留学生を英国に発遣せよと、切に勧誘せるに基くのである。すなわち、少からざる政略上の意義を含んで居るのである。」と述べられているように、派遣にあたって英仏の政治上の駆け引きがあったようである。 慶応2年(1866)10月25日、イギリス留学生14名(取締2名、留学生12名)の一行は横浜を出帆した。この留学生のなかの一人が外山忠兵衛殿の子孫である外山捨八(19才、開成所英学教授手伝出役)であった。 ロンドン在住の留学生らは渡英後、約1ケ年を経てようやく正規の大学教育を受けることになったが、日本においては、慶応3年10月14日に大君(慶喜公)が政権を朝廷に返上し、265年にも及んだ徳川幕府は終焉を迎えた。 幕府は政権返上にともない慶応4年3月に留学生らの帰国を決定した。在英留学生に対する幕府からの送金も途絶えがちの折から留学生の帰国の船賃などあるはずはありませんでした。折しもパリに在留していた徳川昭武公の耳に留学生の窮状のことが伝わった。昭武公は、留学生が旅費に窮するあまり、イギリス政府の世話で帰国することは徳川家の恥辱であるばかりか、日本の恥でもある、といい、自分の滞在費を節約してでも旅費を支給するから、まず、フランスに渡らせよ、と命じた。慶応4年閏4月24日、イギリス留学生14名はパリに到着し、昭武公が借り上げた旅館に到着した。翌25日イギリス留学生、オランダ留学生およびフランス留学生の計23名は、昭武公に拝謁した。
昭武公 昭武公は嘉永6年(1853)9月24日、江戸駒込の水戸藩別邸の生まれで慶喜公の13才年下の弟君になる。慶喜公が将軍になった慶応2年(1866)清水徳川家を継ぎ、翌年パリ万博博覧会に15代将軍徳川慶喜公の名代として参加。昭武公が松戸を訪れたのは明治8年(1875)正月。狩猟がすきな昭武公は以降、しきりに松戸を訪れるようになり、明治16年(1883)、松戸の戸定に邸(現在の戸定邸)を建てる。帰国後、水戸徳川家の当主になった昭武公は、当主の座を甥の篤敬君に譲って隠居し、生母の万里小路睦子(マデノコウジ チカコ)を伴って明治17年(1884)戸定邸に移り住んだ。慶喜公が戸定邸を訪れたのは明治22年(1889)。大正天皇も皇太子だった明治35年(1902)に訪ねられた。昭武公は明治43年(1910)7月3日東京府本所区小梅の水戸家本邸(現在の墨田区隅田公園)で58才で没している。
参考資料 三上参次著「外山正一先生小伝」(私家本 明治44年7月20日刊) 宮永 孝著「慶応二年幕府イギリス留学生」(新人物往来社 平成6年3月刊)
外山正一と小泉八雲 東京帝国大学文科大学の学長外山正一が熱心にとき伏せた結果、小泉八雲は東京帝国大学文科大学講師に就任することを承諾した。1896年(明治29)8月に上京し、市ヶ谷富久町21番地に居を構えた。帝国大学における八雲の英文学と英文学史の講義は、学生たちの評判が良く、外山学長の期待に応えた。
外山正一発案の「バンザイ三唱」 明治22年2月11日の大日本帝国憲法発布式の慶祝の際に「バンザイ」と称されたのが最初といわれている。 西欧においては君主や大統領が通るときに帽子やハンカチを振りながら、「Hurray!(フレー)」と言ったり、式場では「Long・live・the・King!(ロング・リヴ・ザ・キング)」「Long・live・the・Queen!(ロング・リヴ・ザ・クウィーン)」(王バンザイ・女王バンザイの意味)またフランスでは「Hourra・le・France!(ウィラ・ラ・フランス)」(フランスバンザイの意味)と唱えていたのに対し、日本でも統一した祝福の言葉を考えようという事になったのです。 近代日本の門出とも言えるこの良き日に、宮城外にて陛下をご奉迎するにあたり、どのような言葉で陛下に対し慶祝の発声をしたらよいか議題が上がりました。なぜかと言うとそれまで日本には一同で慶賀を発声する統一された言葉がなかったからです。はじめ文部省から「奉賀」という案が出ましたが、続けて発声すると「ピン」とこないのですぐに「ダメ!」となりました。 次に臨時編年史編纂掛のほうから「萬歳」の提案が出て、それでいこうとなったのです。しかし「ばんぜい」では「パット」しない。また「まんざい」では漫才みたいで厳粛さがない。そこで後に文部大臣・東京帝国大学総長になった外山正一博士の意見で漢音と呉音を交えて「バンザイ」としたらどうかという意見が出て、協議の結果全員一致で賛成となり、いよいよ11日の当日、発案の外山博士が音頭をとって二重橋外において陛下奉迎の際、声高らかに「バンザイ」を発声したのが最初でした。
外山正一と新渡戸稲造 農学校を卒業した稲造は、明治十六年、東京帝国大学に入学した。この時文学部教授の外山正一博士の面接を受け、「あなたはなんのために勉強するのですか」と聞かれ、それに答えたのが、かの有名な、「われ、太平洋のかけ橋とならん」 という言葉だった。 新渡戸稲造(にとべいなぞう一八六二~一九三三)は思想家・教育者。南部藩士の子。札幌農学校卒業後、アメリカ・ドイツに留学。京大教授・一高校長などを歴任。国際平和を主張し、国際連盟事務次長・太平洋問題調査会長として活躍。
新体詩抄 明治15年(1882) 矢田部良吉・井上哲次郎らと新体詩の形式のものとして日本最初のアンソロジー(詩文などの選集)である「新体詩抄」を編んで刊行し、当時、大きな影響を与えた。
※新体詩 ポエトリーpoetryに相当する文学のジャンルを日本に意識的に紹介、移入するにあたって、考案、使用された名称。
抜刀隊の歌 抜刀隊の歌は、明治18年7月、鹿鳴館で発表された。歌詞は一番から六番まである。作詞者の外山正一は東京帝国大学教授。「抜刀隊の歌」として[新体詩抄]に発表した詩に、フランス人の陸軍軍楽隊教師・シャルル・ルルーが作曲したと言われている。後に明治天皇の御前演奏をした際、ことのほか気に召されてアンコールを求められたという。明治35年5月には陸軍が「分列行進曲」として採用。曲中3回の転調があるため、当時西洋音階になれていない日本人には歌いにくかったという。 「抜刀隊」とは、明治10年の西南の役において、警視庁巡査百余名で結成された精鋭部隊のこと。歌詞の中の「敵の大将」は西郷隆盛のことである。抜刀隊の多くは、元幕臣や佐幕の東北諸藩元藩士。
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