荒木田守武(あらきだもりたけ)(1473~1549) 荒木田守武(あらきだ もりたけ、文明5年(1473年) -天文18年8月8日(1549年8月30日)は、戦国時代の伊勢神宮祠官・連歌師。荒木田一門薗田氏の出身で、父は荒木田守秀。母は荒木田(藤波)氏経の娘。荒木田守晟の弟。山崎宗鑑とともに俳諧の祖とも言われている。1541年(天文10年)一禰宜となる。山﨑宗鑑から連歌を学び、「新撰莬玖波集」に入集されたものをはじめ、1508年(永正5年)の「法楽発句集」などの連歌集、1530年(享禄3年)の「独吟百韻」1540年(天文9年)の「守武千句」などの俳諧集、1525年(大永5年)の教訓歌集「世中百首」などがある。
来しかたもまた行末も神路山峰の松風峰の松風
平安末期の院政期になると、短歌の上の句に別の人が下の句を付ける短連歌(たんれんが)が盛んに行われるようになった。さらに、五七五を付け、続けて七七を付け、と延々とつないでゆく長連歌が生まれる。数人の詩人が一句ずつ付けあうことで一連の詩をつくるというのは、世界でも例のない文学形式である。初めは遊び半分であったが、そのうち名人と呼ばれる専門の人が出てきて、和歌的な古典の伝統を盛り込んだり、付け方や長さに決まりができたりして(「式目」と言う)磨きがかかり、和歌と同列の文芸として位置づけられるに至った。しかし、堅苦しく真面目一方であったから次第に一部の人のものとなり、戦国時代から、俳諧本来の滑稽や機知を主として、古典を茶化したり、日常生活を題材としたり、社会風刺を楽しむ人たちが現れた。その俳諧連歌の祖とされるのが、荒木田守武である。
の三首を辞世としている本もある。なお、別に辞世の発句も伝わっている。
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