来しかたもまた行末も神路山峰の松風峰の松風
   ※ 神路山=伊勢神宮内の神苑の山。南すそに五十鈴川が流れている。

 

 平安末期の院政期になると、短歌の上の句に別の人が下の句を付ける短連歌(たんれんが)が盛んに行われるようになった。さらに、五七五を付け、続けて七七を付け、と延々とつないでゆく長連歌が生まれる。数人の詩人が一句ずつ付けあうことで一連の詩をつくるというのは、世界でも例のない文学形式である。初めは遊び半分であったが、そのうち名人と呼ばれる専門の人が出てきて、和歌的な古典の伝統を盛り込んだり、付け方や長さに決まりができたりして(「式目」と言う)磨きがかかり、和歌と同列の文芸として位置づけられるに至った。しかし、堅苦しく真面目一方であったから次第に一部の人のものとなり、戦国時代から、俳諧本来の滑稽や機知を主として、古典を茶化したり、日常生活を題材としたり、社会風刺を楽しむ人たちが現れた。その俳諧連歌の祖とされるのが、荒木田守武である。


 守武の父は伊勢内宮の禰宜(
ねぎ)で、荒木田七家の薗田(そのだ)氏。母も荒木田七家の藤波氏の出で、その父は内宮長官であった。守武は15歳で禰宜になり、天文10年(1541)69歳で禰宜のトップになって、薗田長官と号し、衰微していた神宮の維持に努め、77歳でなくなった。


 伊勢の地は南北朝のころから連歌の盛んな土地柄で、室町時代には神事の一部ともなった。守武も早くから連歌を嗜み、23歳のときに成った『新撰莵玖波(
つくば)集』には、兄守晨(もりとき)と共に一句ずつ入集している。宗祇・宗長など、当時一流の人の添削指導を受けて力を付け、『守武発句集』『何人百韻』『法楽千首』など次々に発表、なかでも『秋津州(あきつしま)千句』の独吟は伊勢神宮神官連歌の頂点と言われる。また、一首ごとに「世の中」の語を入れて短歌百首をつくり、児童への教えとした『世中百首(よのなかひゃくしゅ)』は有名であり、後に土地の人は「伊勢論語」と呼び尊んだ。


 58歳のときの『俳諧独吟百韻』が、守武の俳諧として知られる最初のものである。以後、俳諧の連歌に大きく傾いてゆき、その仕上げが天文9年(1540)、68歳でつくった『俳諧独吟千句』(守武千句)である。その文学史的意義は大きく、宗鑑の『犬筑波集』とともに近世俳諧の源流となった。また伊勢の地は守武をうけついで初期俳諧の一大中心地となった。


 辞世の「神路山」というのは古歌によく詠まれる山である。伊勢神宮に生まれ育ち、伊勢の文化興隆に力を尽くした守武であるから、臨終のとき、「来し方もまた行く末も神路山」と詠った気持ちに肯ける。ただ、


   遂にゆく道を心にこととへば答へやらぬぞ教へなるらん
   神路山こし方ゆくへ詠(
なが)むれば峰の松風峰の松風
   こぞまでは見つると花にいつの世かもし忘れずば人の言の葉

 

の三首を辞世としている本もある。なお、別に辞世の発句も伝わっている。